ちょいわる親父の応接室

<浦野神父の教会日誌>(2012.7.28)

今日は豊島教会の方がお見えになりました。話題の一つは「週報としま」に連載されている「浦野神父の教会日誌」(第477号2012.7.22 原文は資料室)についてでした。洗礼証明書の発行を依頼された浦野神父の対応に疑問を投げかける話でした。 「日誌」のタイトルは「時々かかってくるあの電話」となっており、“あの”電話という表現がすでに浦野神父の心情では最初から忌み嫌いな“嫌な”電話ということのようです。なぜ浦野神父が本人ではなく家族からの洗礼証明書発行を依頼されることを嫌っているのか、その理由がよくわかりません。今回の件では洗礼証明書発行の依頼理由が結婚を理由としているようですが、世間的にも結婚というおめでたいことなのですから、おめでとうの一言を添えて本人の消息など尋ねたりしながら、証明書を気持ちよく発行してあげればそれで済むはずだと思われるのですが。なぜわざわざ浦野神父自ら悪役だとわかっていながら相手を怒らすような対応をするのか、不思議に思います。洗礼証明書を依頼した方は浦野神父から予想もしなかった返事をもらい戸惑ったあげく怒りに変わったのかもしれませんね。どこかの役所のように本人がこなければダメだとか、本人自らが電話で依頼しなければダメだとかいうものではないでしょう。そのことにこだわっている浦野神父は、普段は教会人として愛のある共同体を主張しているはずですが、自ら愛のないことをしているということに気がついていないのでしょうね。今回依頼してきた家族の方は、私どもの勝手な想像ですが、しばらく教会を離れていた本人が結婚することになり、何とか教会で結婚式をあげて、結婚の秘跡のお恵みを授かってもらいたいと本人に代わって必死だったのかもしれないし、単に「忙しい、遠方に住んでいる。・・・」からと本人から家族がよろしく頼まれたかもしれないですね。それでも立派な?理由であると考えてあげるべきでしょう。どのような理由であれば浦野神父は家族からの依頼に納得するのでしょうかね。電話の相手に、なぜ結婚する本人がかけてこないのか、結婚するのはあなたではないでしょうといちいち問いかけることは如何なものでしょうか。わざわざ相手に嫌な思いをさせ、自分も嫌な思いをすることがわかっておりながら、今まで“あの”電話に思慮もなく対応していたのでしょうか。情けない気がしますね。また、浦野神父は「証明書発行のための文章を作り、返信用封筒を同封して・・・・・・・」にすれば双方嫌な思いをせずに済むと提案しているが、非常に事務的で、それだけでは主任司祭である教会人の対応としては物足りなさを感じるのは私たちばかりではないでしょう。事務的にやりたかったら最初から相手にその旨を伝えて余計な事を聞かないで済ませばよいのではと思うが、相手を怒らせるようなことを言った後に事務的な手続きのことを言っても果たして依頼する方はどう思うだろうか?浦野神父には理解できないのでしょうね。理解できないからあれから3週間近くたっても依頼の手紙が来ないと不思議がっている様子なのでしょう。賢明な教会人は信徒との対話、コミニュケーションを大事にします。きっかけを掴んだら特に自分の教会の信徒を離さない努力をしますね。そっけない事務的な話で終われば二度とその主任司祭のところにはお願いすることはないでしょうね。ましてや不愉快な思いをさせられたらなおさらでしょう。共同体としての教会発展のポイントの一つは主任司祭の人間性にもよることが大であることは否定できないでしょう。今回浦野神父に依頼してきた家族の方にはいろいろな家族間の事情、歴史、人生がありということを察してあげて、余計な事を言わずに、本人たちの都合に合わせて対応してあげても良かったのではないでしょうか。会話より文書を大事にする?浦野神父は、そのうち家族からの洗礼証明書発行依頼に関しては本人の委任状を出せということになるのかもしれないですね。浦野神父の目線がなにかにつけ信徒より上にあることがわかります。それでは信徒の気持ちは理解できないし、説得できないでしょうね。キリストはへりくだることを教えていませんでしたかね。私たちはこの浦野神父の日誌を読んでなぜか嫌な、そして不愉快な気分になりました。