ちょいわる親父のひとり言

このホームページは東京小教区カトリック豊島教会(以下豊島教会という)の信徒有志や他の小教区の信徒もまじえて作成されたものです。その目的は今、日本のカトリック教会で何が行われているか、日本のカトリック教会の恥部にも目を向け、そこから我々信徒は何を学ぶべきか、信仰上のヒントを得られれば幸いと大上段にかまえたものの、まったくどのような展開になるのか自信がないがまずはやってみようということで始まりました。ほとんど信仰の問題と言うより、それ以前の常識の問題かもしれませんが。もちろん、この館は仮想の館です。

1.大雑把な意見

最初に、長年にわたってなんども不適切な箇所を指摘されていながらも、デタラメな収支報告(決算報告)を毎年信徒総会で続け、いまだに改めようとせず、平然と続けている豊島教会関係者に改善を促すための意見を進めます。 デタラメな収支報告は豊島教会にとどまるだけではなく、実は他の小教区にも共通の問題となっていることを私どもは問題視して、小教区の健全な発展と日本のカトリック教会の健全な発展をも願い、この今日的な問題点を皆様に提示し、私どもの考え方をお伝えし皆様のご意見等も賜りたくこの問題から始めようと考えました。能力はともあれ、主任司祭をはじめとして教会の中枢部になんと無責任な人間が多いことか、会計処理の問題ひとつとっても、自ら教会をダメにしていることを理解していないようです。
時には辛口となったり、悪口と思われるような表現となる場合もありますが、なるべく具体的に事実を伝えることが受け止め方によれば悪口のように感じられる場合もあろうかと思うので、前もってご容赦を願うものです。 間違いなどあれば遠慮なく、ご指摘いただければ幸いです。
豊島教会と同様に、他の小教区でも献金、教会維持費等々につき、会計、財務担当者は苦労している割にはその重要性を認識せず、正しく報告するどころか、いい加減な収支報告が毎年おこなわれている小教区もまだまだあるようで、末端の小教区がデタラメな収支報告だらけだとそれらの収支報告を総括しているそれぞれの宗教法人である各教区本部や本丸である日本カトリック中央協議会の決算報告などもデタラメということになってしまう恐れがあります。宗教法人としての法人格の資質を問われかねないものです。
一般世間からはカトリック教会は会計、財務がデタラメで、そこで働く聖職者、職員もデタラメ、ついでにカトリック(キリスト教)そのものもデタラメではと言われかねないでしょう。もっと真剣に教会関係者はこの問題について考えてほしいものです。

2.カトリック高松司教区での会計ミス続出の話

約10年以上前の話になりますが、宗教法人カトリック高松司教区では、いわゆるネオ神学院建設に関して、会計ミスが続出し(ほとんど作為的なデタラメ処理のようだった)、資料によると2001年11月4日の教区司祭評議会に提示された「一粒会収支一覧」には最下欄に「次期繰越金」が追加され繰越金の金額が明らかにされていましたが、それ以前の9月29日に教区の信徒役員会に提示された「一粒会収支一覧」には「次期繰越金」の記載がなかった事実がありました。 これは当時の高松司教区の深堀敏司教(故人)が、原告の信徒森岡源三氏ら2名から名誉棄損で訴えられた損害賠償請求事件の裁判(松山地裁)の過程の中で、原告側から提出された証拠資料(甲第11号証)から判明したものです。 つまり、高松教区では「次期繰越金」を必要に応じて隠したりする手法を意図的におこなっていたことが伺え、同じようなことが約10年以上経った現在の東京小教区の豊島教会の決算報告でも行われているということです。 教区は違っても10年以上経てもその体質は改善もされず変わっていないと言えるでしょう。
この高松教区の会計、財務の問題は日本のカトリック教会のひとつの縮図にすぎず、他の教区、小教区も大同小異、都合によって繰越金が出たり、引っ込んだり、繰越金額のごまかし、残高のごまかしなどは日常茶飯事のように行われているようで、ゆゆしき問題であります。まじめに献金している者にとってはたまらない実態が浮かび上がってくるものです。
皆さんの教会では、少なくとも前期繰越金、次期繰越金、預金残高などの勘定科目が計上されてきちんと正しく、報告されているでしょうか。またそれらの金額が間違いなく正しく会計処理されていることを確認できているでしょうか。 会計担当者は正しく会計処理して一般信徒に報告する義務と責任があります。
また、会計監査担当者についても、一般の民間会社が商法改正により監査役の責任が重くなってきておりますが、同様にきちんと監査をしなければ責任を問われることもありましょう。同じ身内での監査が不祥事、不正が多く信用できなくなってきたというのも商法改正の理由のひとつかもしれません。上場会社は外部の監査法人に監査を委託するのが建前となっているようです。 小教区の教会でも監査役の方の責任が重要視されるのは当然となってきております。監査役の適任者がいなければ、専門家にお願いするのも将来的には必要となるでしょう。そうでなければ小教区の教会の会計は相変わらず不正、不適当な処理のまま推移することになります。
ちなみに、この高松教区の一粒会からは、3000万円ほどがネオ神学院の土地購入資金として正当な手続きを経ないで支出され、その理由を深堀司教は証人尋問の際、「自分にささげられたものだから(正当な手続きをしないで)自分の裁量で支出した」との発言をしています。 それについて裁判長から、「司教さん個人へということではなく、高松教区にささげられたものでしょう」と、誡め?の言葉があったものです。
豊島教会の主任司祭である浦野雄二神父も同じような発想、認識の仕方であろうと思われることです。彼の言動を見ていると深堀司教と似た思考回路を感じさせます。

3.豊島教会の会計処理の問題点

2010年度の総会で配布された豊島教会バザーの収益金の寄付先一覧表を見ると、約196万円の収益金があり、寄付先の件数にして40パーセント以上が現金で寄付先に手渡しされています。どこでも現金の手渡しは問題が起きているようで好ましいやり方ではないと思われます。ある教会では手渡しした領収書の偽造がおこなわれていたということもありました。だれがだれに渡したぐらいははっきりさせたほうがよいでしょう。 それはそれとして、もっとも金額の大きい50万円についてだれに手渡したのかと、当時の教会委員長に質問すると、浦野主任司祭に手渡ししたという説明でした。
バザー収益金寄付先の一覧表によると、それを豊島教会建設資金に入れたということになっています。浦野主任司祭に自由にお使いくださいと手渡して領収書をもらい、浦野主任司祭がそれでは教会建設資金の方へ入れさせてもらいますとしたのかどうか不明ですが、わざわざ浦野主任司祭の手をわずらわすことなく、主任司祭の了解を得て建設資金口座に直接50万円を入れる処理をしてもよかったのではと思われるのです。なぜ、わざわざ迂回して50万円もの現金を主任司祭に手渡ししたのか、それこそ自由にお使い下さいと手渡ししたものか、その理由は不明ですが、誤解を招く処理の仕方でしょう。
その他にも司祭の家建設資金、ハイチ災害援助(カリタスジャパン)へ各10万円ずつ手渡しとありますが、領収書の存在が気になるところです。
ただ、豊島教会では一年分の領収書、入出金伝票などがビニール袋に混然一体となって入れてあるのも気になるところです。あとからチェックしにくい?状況がよくわかります。基本となる伝票類の整理がなされていない状態は不正を招く温床となりかねないものです。普通はあり得ないことです。
一方、バザー収益金で余剰金の163,426円について、浦野主任司祭はこのお金の寄付先は自分が決めると公言していてそのとおりに処理されたようです。
しかし、もともとこのバザーの収益金はだれのものでしょうか?誰に帰属するお金でしょうか?
一覧表に出ている寄付先に関して海外振り込み、郵便振り込み、銀行振り込み、現金書留の振り込み料や手数料は発生しないのでしょうか?
おそらく豊島教会ではバザーの収益金は使い切るまで現金で管理しているということで、預金管理はしていないのでしょう。よけいにきちんとした領収書があるのかどうか気になるところです。
決算報告の話に戻りますが、繰越金も不明、預金残高も不明ではどこへどのように処分しようと関係なくなるので、如何様にも不正ができ、裏金としてプールすることも可能です。 そのような処理は許されるはずがないのにもかかわらず、あえて繰越金、預金残高を隠すということはどういうことなのでしょうか。 去年の預金残高はどこに繰り越されているか、もっとはっきりと最初から明示すべきでしょう。
本来、2010年度決算報告で次期繰越金として処理すべき1,575,041円を、いきなり預貯金組み入れとして処理するのは、収支計算を正しく表示したものといえないものです。監査の時点で、1,575,041円が正確に普通預金に入金されたのを確認されたのでしょうか。つまり収入合計16,626,639円から支出合計15,051,598円を差し引いた、純利益ともいうべきこの1,575,041円は通常翌期に繰り越されるものでしょう。
ちなみに2009年度の決算では1,133,812円が純利益となっていますが2010年度の決算では全く反映されていないのではと思われます。どこかにもぐりこんでいるのでしょうか。
また、同じ2009年度一般会計でオルガン積立金200,000円が増額していますが、収支報告の「支出の部」でオルガン積立基金引当金として200,000万円が計上されているのでわかりますが、一般会計の建設積立特定預金3,275,870円が増額になっているのに、この金額がどこから来たのか不明です。
2010年度豊島教会バザー収益金の寄付先として、先に述べた、豊島教会建設資金として浦野主任司祭に手渡しされたという500,000円が2010年度の一般会計に計上されているのでしょうか。
次に予算についてですが、2010年度予算に対する決算収入は77%に過ぎなかったのに、2011年度の予算では126.9%となっておりますが、月定献金、ミサ献金、定時献金が急増する見込みが期待できるのでしょうか。
人件費の職員給与1,000,000円は本当に必要な予算なのでしょうか。
維持管理費の大規模修繕費3,000,000円は急を要する大規模な修繕が予定されているのでしょうか。(幼稚園の運動場の件か?)ちなみに、前年予算に2,000,000円計上するも実績、決算額は0円です。
維持管理費の園芸費1,000,000円は必要なのでしょうか。これもちなみに、前年度予算に対して実績、決算額はわずか8,118円でした。
その他、会計ルールをまったく知らないと思われる仮払い処理の件、総合計の記載処理間違いなど信じられない処理の仕方がなされているわけです。わけがわからないまま適当に前例に倣ってやっているということでしょうか。 ひどすぎますね。会計を全く知らない人が会計担当者として仕事をさせているからデタラメな処理をしているのでしょう。また会計知識もないのに役を引き受ける本人も無責任だと言われてもしょうがない。自分で確認しない、できない、勉強しない、したがって誤りを指摘してもちんぷんかんなのでしょう。
ともかく以上のようなやり方は、一般的な収支報告のやり方ではないということがわかります。継続性もなく会計ルールを逸脱するもので予算の考え方も間違った処理の仕方だと言えるでしょう。
根本的な誤りを正せないような組織は先行きどうなるか、心配であります。 何とか専門家に聞くなり、勉強するなりして正常な会計報告をしてもらいたいものです。 そんなことで勉強も兼ねて、第三者による監査も要求しましたが、浦野主任司祭の代行としてときどき豊島教会に来ている板橋教会の主任司祭である辻茂神父からは拒否されました。彼の立場としては当然でしょう。しかし、正々堂々と監査を受けられるような会計、財務状況にすべきであろうと思います。ちなみに、セクハラや子供の性的虐待の問題で日本の司教団は「教会が第三者機関を通して問題解決をはかり、客観的判断をあおぐことができるようなシステムを導入することが重要」としております。同様に肝心な教会の財務、会計についても「第三者機関を通して明朗公正なシステムを考えるべき」だと思われることです。
教区本部でときどき小教区の会計、財務担当者が集められているようですが、なにを指導しているのでしょうか。繰越金や預金残高を隠して裏金つくりなど指導しているのでしょうか?
東京教区本部には会計の専門家はいないからと、豊島教会総会で議長役を頼まれたU田氏が語っていたが、本当であれば心細い話であります。 おそらく顧問の専門家はいても日常的に会計、財務処理を指導する専門家がいないということなのでしょうか。教区本部のT氏ではダメということなのでしょうか。だからといってデタラメな会計報告をしてよいものではないでしょう。
ともかく、会計、財務担当者は正確に仕事をしてもらいたいものです。当然ながら正確に仕事をすることを要求されております。 教会共同体の会計、財務を主任司祭はじめ教会委員が、自分たちだけでいいかげんな取り扱いをしていることは、教会を守るどころか、共同体作りの根幹を腐らすことになるものです。教会共同体をダメにしているものです。
次に、もし豊島教会の主任司祭である浦野雄二神父が深堀司教と同じような考えで、教会維持費、献金は自分にささげられたもので自分の裁量で支出できるものだという考え方を持つなら、裁判長から、「あなた個人にささげられたものではなく、豊島教会にささげられたものではありませんか」と問われるはずです。
教会の中でしか通用しない教会法で反論しても世間の常識には勝てない場合もあることを知るべきでしょう。そのことを高松の裁判で教えられていることを謙虚に日本の聖職者は受け止めるべきでしょう。

4.セクハラ問題について

話題をちょっと変えます。詳しくは後述しますが、日本でのセクハラ問題に関して、元国鉄OBのO氏が10年以上も訴え続けて、やっと日本のカトリック教会としてのセクハラ対策の案内書?ともいわれる小冊子「セクハラに気づくことから」が中央協議会のシスター石川のご尽力で何年か前に出来上がりました。カトリック中央協議会のホームページに既報されていますが、結論的には司教への直接電話を主軸とするものだったと思います。 また、カトリック新聞には当時の教皇庁文化部顧問であった工学院大学の小柳義夫教授がセクハラに関してのコメントを発表していたと思います。 しかし、プロテスタント教会のある一派では10年前にはすでにセクハラ問題を真剣に取り上げて、その対応策はカトリック教会に先駆けて出来上がっていたものです。 O氏の所属していた教会でのセクハラ事件は、加害者の神父本人も、その長上も未だに被害者の女性に対して一言のお詫びの言葉をかけていないようです。
O氏によれば、それぞれが責任を感じて一言でも謝罪をしてくれれば自分も教会を離れることはなかったと言っております。被害者女性信徒と同調者の信徒たち8名はとっくに教会を離れていますが、教会関係者が何の適切な対応策を講じることなく、それをそのままにしてきたことに、なんで10年間も放っておくの、なんで謝罪しないのと、大いに疑問が残るものです。
O氏の所属する教会委員会も信徒総会も被害者の擁護に立つことがなく、逆に女性側にも隙があったのではと、加害者側の論理に味方してまじめに取り合わなかったとのことです。それからO氏の戦いは10年以上に及ぶことになりました。
10年以上もの間、誰も責任をとるものがいなかったということです。これが日本のカトリック教会の現状でしょう。
当時から現在までもこのような問題に日本のカトリック教会はまじめに対応しようとしてきたのか疑問です。アメリカでの子供に対する性的虐待事件を契機として、日本でもプロジェクトチームがつくられたようですが、セクハラに関する小冊子が発行されただけで、それだけにとどまっているようです。 カトリック教会のイメージを損なうことについて、公になることは本意ではないことは理解できます。しかし公になる前にもっと被害者の目線で動いたらと言いたいのです。
豊島教会のある信徒の方から森一弘元司教(正確には名誉司教?)の著書「これからの教会のありようを考える」を先日プレゼントされました。その本の最後のほうでセクハラ問題に触れています。「そもそも罪を隠蔽することは、教会の本質ではないはずである」、「その根本的な理由の根は深く、それは、カトリック教会の聖職者たちの、・・・・・すべての権限を委ねられているという自己理解にあるように思われる」と述べていますが、元司教の言う”自己理解”とは”傲慢”に他ならないということでしょう。それでも元司教自ら一般論として公にセクハラ問題に触れているのにはちょっとびっくりもさせられたものです。
ついでにあとで詳しく触れたいと考えていますが、この著書の内容のなかには大きな誤りと思われる箇所が何箇所かあるような気がします。 森氏にとって教会とは、プロテスタント教会であれ、カトリック教会であれどちらでもよいということなのでしょうか。考え方の発想がカトリック的というよりプロテスタント的に思えることです。たまたま自分は縁があってカトリック教会に籍を置いているということでしょうか。この著作本を読む限り、著者がカトリック教会に籍を置いている理由はなにも見当たらないし、その必要はないと思われます。余計なことですが、ある神父にこの森氏の著書を送り、感想を求めたら、この本は一つもカトリック信仰の役に立たない、と一蹴されました。
森氏の大きな誤りと思われる一つは「わたしが強調したいことは、それがたとえ、教皇から提示されたものであったとしても、うのみすることをせず、自分の良心に誠実に真剣に問いかけるべきだということである」としていることです。
教皇、ローマを批判することはカトリック聖職者として如何なものでしょうか。また別の著書で、バチカンの財宝を売り払って貧しい人々に分かち合えばとの、プロテスタントがよくバチカンを攻撃する、揶揄的な考え方をカトリックの元司教である森氏が述べていることについても、とても異和感を感じるものです。 そのような単純な発想も、文化遺産や世界遺産など、歴史的文化の意義、価値、影響を理解しない森氏独特の価値観、偏見でしょう。歴史から学ぶことの必要性がないということのようですが、如何なものでしょうか。これも余計なことですが森氏がカトリック聖職者になったのは何かの間違いだったような気がします。
われわれ人間の価値観からは教皇が過ちを犯すことは歴史が証明していることは理解できますが、その教皇に過ちがあったとしても、特に聖職者はそれを受け入れなければならないということです。教皇の誤りもすべて神の計画の中にあるということを理解すべきでしょう。 わざわざ使徒の一人に選ばれたユダの存在は、われわれ人間の目からは裏切り者であり、悪人であり、罪人でありますが、神の計画のなかにあった人物でしょう。他の使徒であった初代の教皇ペトロから現在の教皇までも同様に、神の計画の中にある存在だと思われることです。 教皇を批判する理由を述べるのであれば、ユダにまで言及しなければカトリック的とは言えないでしょう。

Universaeの19条に関するある神父のコメントです。 要するに19条は、普遍教会の至高の牧者としてのローマ教皇に反対する立場をとる者に対しては、いかなる方法であれ、支援または所属することを強く禁じており、現行ミサの有効性と合法性、またローマ教皇への従順を確認しております。 秘蹟と教会の教導職に対する信仰は、カトリック教徒として基本中の基本であり、もしある人がこの二つをはっきり否定した場合、その人はローマカトリック教会にとどまれないことは自明なことだと思います。(2012年4月8日追記)
ある日ユダが授けるご聖体は有効か無効かの話になったとき、ある司祭は有効であるとはっきり述べたことが今でもはっきり印象に残っています。 その話の延長で、教皇に逆らった?とされるピオ10世会の司祭が授けるご聖体は有効か無効かの話も、ミサも有効だし、ご聖体も有効と言うことでした。 しかし、教皇に逆らって“自分理解”の典礼に固執していることはまさに傲慢であるという意見もあります。(2011年12月11日追記)
話を元に戻して続けますが、豊島教会で子供に手をあげた主任司祭が過去にいたようですが、教会委員たちは何も被害者の力になることはなかったようです。 当時、この件で抗議を受けたK司教は自分の立場は原則として自分は司祭の見方ですと答えたそうです。部下の不始末は長上である私は責任を取りませんよと言うことなのでしょうか?このような司教に直接セクハラの被害を訴えても加害者の神父の見方になるということかもしれません。それでは解決に至ることは期待できないと思ったほうが無難かもしれません。
民間会社では不祥事があれば幹部役員、あるいはトップの社長までが頭を下げ、謝罪する姿はよく最近もテレビなどで見受けられます。 部下の不始末に、責任を取らないとなれば、大きな社会問題となることもあり得ます。
O氏の場合も、子供に手を挙げた主任司祭の場合も、結果としてだれも責任とることなく、謝罪することもなかったということです。 これでは日本のカトリックがよくなるはずがないでしょう。 宗教人として女性の人権、子供の人権を擁護することは当然だと思います。 しかし、このような問題に関しても、日本のカトリック教会の未熟な体質は昔も今も根本的には何も変わっていないと言えましょう。
欧米のカトリック教会でこのようなことがおこったら教会側はどのように対応するでしょうか?
最近、アメリカでの性的虐待については大きく社会問題となった結果、現教皇が世界に向けても謝罪しています。それ以前の2002年9月にもアメリカでの性的虐待事件で被害者86名が加害者の神父と大司教区を訴えました。当時の金額で約12億円で和解したものの、加害者神父は刑事裁判で禁固9年を言い渡されています。最近のカトリック新聞にも性的虐待の記事があったと思いますが、少なくとも日本のカトリック教会からはこのような性的虐待の事件はなくしてほしいものです。
欧米では性的虐待問題などの刑事事件を除くと、聖職者が信徒に頭を下げたという前例は、日本と同様に皆無にちかいものだと言われています。
一般世間では、部下が不始末すれば上司がお詫びしたり、場合によってはトップがお詫びすることが当たり前なのですが。 それが責任ある大人としての、常識人の行動だと思いますが、皆さんはどのように考えますか?

5.謝罪するということ

さて、東京小教区豊島教会も主任司祭はじめ教会委員が間違った決算報告書を提出したことのついては、信徒に謝罪して、正しい収支報告書をすぐにでも提出すべきでしょう。 しかし、まず頭を下げるのが嫌なのか、主任司祭、教会委員も、双方とも自分たちの誤りを公に認めたがらないものです。 当時の会計担当者である野氏は周囲からも、あんたは素直じゃないねと言われていたぐらいですから、ほかの教会委員も似たり寄ったりでしょう。 この野氏もそうだが、主任司祭に迎合することを良かれとしている教会委員が多いから、主任司祭が頭を下げなければ自分たちも頭を下げないと言うのかもしれない。しかし世間一般に通用する大人としての対応を考えてもらいたいものです。 辻茂神父と教会委員関係者、信徒関係者が3名ずつで若干の時間しか取れなかったが、話し合いの席を設けていただいた。辻神父は、決算報告に関して豊島教会はこのやりかたでずっとやってきたからな~と間違いを正すことは教会委員に積極的にすすめなかったと思う。浦野主任司祭の代行で来ている彼としては余計なことに積極的に関与すべきでないと判断したのだろう。ただ彼の判断の誤りは、一人の信徒が正しいクレームをつけても教会は動かないが、大勢の意見なら動くこともあるという間違った考え方をしていることだろう。
決算報告の誤りを正すことは、人数の問題や多数決で決める問題ではないことは常識的にも明らかでしょう。誤りが確認できたらすぐ訂正して報告しなおすことがこれまた常識でしょう。辻神父はそう指導すべきだったと思うし、会計ルールの継続性からも、次年の総会から正しくやればよいというものではないはず。残念ながらその点が理解されていなかった気がする。浦野主任司祭と同様、安易に考えているのでしょう。辻神父はフットワークの良さでは定評があるのだが。
また、西川神父から浦野神父に主任司祭が変わっても決算報告のデタラメなやり方が変わらないということは、教会委員側にも問題があるともいえる。 それとも双方とも本当に無知なのか、あるいは承知の上で行動しているのなら悪質としか言いようがない。 こんなことをしていては、教会を守るどころかダメにしているということがわからないのだろうか。
教会委員の中には自分たちがやってあげているだという思い上がりと傲慢さとも伺える言動をする方もいるようです。間違いを正すより、まず教会委員に対して感謝すべきだとの考え方を示している浦野主任司祭も同様で、彼らの傲慢さを助長しているような考え方を示しています。考え方が同じようなレベルなのでしょう。
主任司祭が間違いを正そうとしなければ、今の教会委員たちのメンバーや去年の教会委員たちではなおさら改善しようとしないでしょう。間違いを放任したままではなおさら改善されるわけがない。実際、毎年同じ過ちを意図的に繰り返しているのですから。
浦野主任司祭も、まず指摘された決算報告の誤りについて是正すべき義務と責任があり、是正したうえで日ごろからの教会委員の労をねぎらう言葉を言うべきだと思う。デタラメをしている教会委員を正すことをしないで、彼らに感謝しろ、尊敬しろとは本末転倒もいいところでしょう。それが教会でいう愛の証だというなら大間違いです。報告書の間違いの原因を作ったのはだれの責任なのか。何年も前から誤りを指摘されながら、それに誠意をもって適切に対応してこなかったのはだれの責任なのか。声を荒げて質問されても正してこなかったのはだれの責任なのか。どこかが狂っているとしか思えない。
まず浦野雄二主任司祭は自らがいい加減な決算報告をさせた責任をとって、信徒に謝罪して正しい収支報告を豊島教会新聞にでも教会委員長連名で出すことです。自分も無知だったのだから仕方がないと思う。それが出来るか、出来ないかによって主任司祭としての資質が問われても仕方ないでしょう。
私どもは正しい収支報告が出るまで教会維持費、献金などは10円から100円にとどめるよう働きかけていきます。 豊島教会は、信徒からの維持費や献金が約一億円程度あったと思うので、少なくとも10年、20年は献金がなくともびくともしないでしょう。 ただ誰かに不正をされて預貯金が無くなる可能性はありますが。
主任司祭が信徒に何でもかんでも文書で出せとかいうことは極力止めるべきです。すでに対話を拒否している姿勢です。ちょっと呼んで話せば済む内容もあるでしょうし、電話で済む内容もあるでしょう。浦野主任司祭のやり方はつくづく深堀司教のやり方を思い出させます。両者のやり方は聖職者共通の常識のなさと傲慢さからくるものと思われます。 対話なくして文書で宣教出来るわけがないでしょう。 自分の気に入ったイエスマンだけと対話していたのでは教会は成り立たないし、主任司祭としての役割は果たせないでしょう。もっと積極的に誰とでも話し合えるよう自分でも努力されたらと思う。
前教皇が「アジアにおける教会」というアジアシノドスを受けた文書の中に、「対話による宣教」がこれから二一世紀の教会の使命の本質であると書かれていたことを思い浮かべてほしいと思う。

6.高松教区の裁判でのお話

そこで、中外日報(2002年7月25日)の記事を紹介します。例の高松教区の裁判でのお話ですが。 《裁判長から「司教さん、あなたは『司教書簡』で非難する前に宗教者として信徒と話し合うべきだったと思いませんか」と問われ「私は私のやり方が正しかったと思います」と答えている。自分の都合によって話し合いを求めたり拒否したりでは、最近評判の悪い一部政治家の言動を連想したくなる。話し合い否定から話し合い要求へと(司教が)路線を転換するのなら、まず、自分の誤りを裁判長と原告(森岡源三氏ら)に詫びるのが筋だと指摘する法曹専門家もいる。司教は信徒に頭を下げてはならないのか。・・・・・・》とあります。高松の裁判からすでに10年以上経過した2011年10月の今日、東京小教区豊島教会主任司祭は、デタラメな収支報告に関して、同様に、信徒に頭を下げてはならないのか、まじめに献金している信徒に対して責任を感じないのかと浦野雄二主任司祭に問いたい。
ついでに、深堀司教が異議を述べた信徒に対して、司教の権威で、教会法で抑え込もうとした愚挙は、国内法で訴えている原告にも、国内法で審理している裁判官にも通用しなかったものです。当たり前のことでしょう。 また、深堀司教は原告らに事前警告なる文書を出して口封じを試みているが、まったく同じように浦野主任司祭は、決算報告にクレームつけた信徒に、主任司祭の権威と傲慢さで事前警告なる?文書を出している。 その内容は、教会委員たちが仕事をする気が無くなるような発言を止めてくれとの主旨だったと思うが、逆に、浦野主任司祭に対して献金する気が無くなるようなデタラメな仕事は止めてくれと言いたい。その誤った仕事ぶりが問題点であることに気がつかないのだろうか? そして口封じを試みて、5月の定時総会ではなるべくしゃべらせないよう画策したこの主任司祭と教会委員たちはまったく愚かであると思う。
しゃべらせまいと暴力的にマイクを取ろうとして人に怪我をさせれば、大した怪我でなくとも、それが教会内であろうとも、警察沙汰になる可能性があることを知るべきでしょう。
高松裁判の判決文では、「宗教団体といえども日本の法律を順守する義務をまぬがれることはできない」との当然の判断を示しています。 深堀司教が刑事告訴ないし告発されたことを思い出すべきでしょう。
司教が信徒の人権を侵害したという判決(民事・慰藉料請求)でしたが、裁判ではおまけに書類(議事録など)の偽造などが慣例的に行われていた事実も露呈されています。この議事録偽造の件で深堀司教は民事とは別に刑事告訴されたものです。
全ての教会関係者は、宗教法人(教会)を隠れ蓑として不正をしてはならないという当然なことを、よくよく自覚する必要があります。 しかし、今日的な日本のカトリック教会の現状を、情報としていろいろ知らされると、高松教区の裁判での教訓が少しも生かされていないのでは思われます。残念ながら、いまでも同じような問題が日本のカトリック教会で起きている可能性があるということです。
原告の一人である森岡源三氏は、日本のカトリック教会におけるこのような不祥事の再発防止を願っていたはずなのですが・・・・。
もう一度いいますが、なぜ、日本のカトリック教会は、高松司教区の裁判を教訓として生かせないのか。生かそうとしないのか? なぜ、正しく会計処理をして、正しく手続きをして、正しく報告しないのか?なぜ、教会に帰属する維持費、献金を自分たちで勝手に使うのか?
高松の裁判では宗教法人カトリック高松教区が、宗教法人の監督官庁である文化庁の行政指導を受けております。名古屋O氏のセクハラ問題の場合も最後には、同様に文化庁が相談相手だったようです。日本カトリック教会はいくとこまでいかないと動かない、改善しようとしない体質なのでしょうか。 今の時代は特にコンプライアンスが重要視される時代であることは周知の事実でしょう。日本のカトリック教会も例外ではありません。
高松の裁判では、高松教区の問題点が数々明らかにされましたが、その内容は今日の東京小教区の豊島教会での問題点のすべてに当てはまるばかりか、それ以上のことが豊島教会では行われているのではないかと懸念されるところです。
また中外日報の社説を引用しますが、《上位者の司教がまず「すまなかった」と頭を下げれば、原告の2信徒も「私どもも出すぎたことをしました」と陳謝するだろう。そこから高松教区の再建が始まるはずだ。聖職者側に過ちがあったと、信徒に率直に認めるかどうかだ。》としています。
しかし、すべてに反省がないから、進歩もなく、体制、体質も変わらないのが日本のカトリック教会の現状だろうし、小教区カトリック豊島教会も同様でしょう。
なぜ、体質が変わらないのか、そこには常識者としての聖職者より、傲慢さに裏打ちされた非常識者としての聖職者が存在しているのではないかと思われるのです。 とくに小教区ではその聖職者にぴったり寄り添って、教会の利益や信徒の利益を代弁するより、主任司祭の利益を代弁したり、自分たち個人の利益を代弁している無責任な教会委員が結構いるように感じられることです。 本来はキリストの神秘体の頭としての存在である教会の利益を代弁しなくてはならないのが、何が教会の利益なのか理解できていないのでしょう。 残念ながら豊島教会委員も、いつも主任司祭の方にばかり顔が向いており、一般信徒の方には顔があまり向いていないような気がします。
また信徒の中で意見や異見があっても、自分たちの活動記事を優先し、反対意見や自分たちの考えにそぐわない異見は教会新聞、会報などにも載せることがないのもその表れの一端でしょう。オープンな運営がなされていないということなのですが、どこまでオープンにすべきか宗教法人の難しいところかもしれない。しかし、岡田大司教は“開かれた教会”をめざそうと言ってきたのではないでしょうか。
ある方も言っておられたが、「教会も民主的に信者の声を聞き、開かれた運営をしないと、いつでも問題は起こるものだということを自覚する必要がある」と。豊島教会ばかりか日本の全てのカトリック教会についても同じことが言えるでしょう。(2011年10月12日記)
談話室では、東京小教区カトリック豊島教会の2010年度決算報告について、大雑把ですが論議していきます。

7.2011年5月の信徒総会について

2011年5月に開催された2010年度決算報告に関する本番?の信徒総会は露骨にも、しゃべらせまい、早く終わらせようとする全く恣意的とも言うべき、前もって画策された信徒総会でした。 力づくでマイクをとりあげようとしていた教会委員のN嶋君は乱暴そのものでした。質問者の背後にピタッと寄り添い、ただちにマイクを取り上げるよう打ち合わせでもしていたのでしょう。 質問者の手首を怪我をさせるような力ずくでマイクをとりあげ、引き続き質問しようとする相手にかまわず”(取り上げたマイクを)渡してもいいですか”と議長役であったU田氏の許可を伺っていたのが印象的でした。
N嶋君はみんなとの事前の打ち合わせで言われたことをただ忠実にやろうとしていたのでしょう。しかし、子供でもないのだから、他人の指示によるものであっても自分の行動には責任を持つべきでしょう。それが出来ないということは、大人としての善悪の判断がつかない人間なのか、あるいは責任能力がない痴呆の部類の人間なのでしょうか。 目白警察署担当者から浦野主任司祭や関係者に電話連絡がされているにもかかわらず、人に怪我させたことがわかったら、たいした怪我でなくとも謝罪することぐらいは常識だと思うが、未だに知らんふりしているようです。また、円満解決のためその仲介の労を取ろうとする人間も、事情を訊ねようとする人間も、主任司祭を含めて誰もいないということは残念なことだと思われます。普段から、愛だの、思いやりだの、礼儀だの無責任に言っている人ほど、いざとなると責任を取らず、逃げ回っている人が多いのが、豊島教会の実情なのかも知れません。 いや、豊島教会ばかりか体質の変わらない日本のカトリックの現状とも言えるかもしれません。
残念ながらカトリック豊島教会の主任司祭はじめ教会委員など関係者は、残念ながら程度が悪すぎるのでは?と思われても仕方ないでしょう。 このカトリック豊島教会の程度の悪さ、体質の悪さを示していることでは有名になっている?最も大きな問題が存在しております。
この豊島教会に集う信徒はほとんどの方はまじめで、献金などについてもまじめに献金している方もまだ大勢いるのですが、その集めたお金の収支報告が長年にわたってこの豊島教会では既報の通り、正しい報告がなされていないという現状があります。いつまでたっても正しい収支報告が出来ないでいるのはなぜなのでしょうか。 教会の中枢に巣食う、無責任な、たちの悪い人間が献金の周りにうろうろしているように感じられます。私どもの思い過ごしでしょうか? ちなみに、今年2012年2月の総会で配布された収支報告書を拝見すると、ますますひどい報告内容になっております。

8.2012年2月の信徒総会について

今年の信徒総会は、2012年2月12日に開催されたようで、当日2011年度の決算報告がされて、収支報告書などは希望者のみに配布されたようです。 その時に配布され、総会で承認を受けたとされたものが(資料A)です。その後、総会で配布されたのが間違いだったとして訂正版として郵送配布されてきたものが(資料B)です。
この資料A,Bと昨年の若干の資料をもとに、専門家の税理士の先生にこれらの収支報告書の問題点などを確認していただきました。確定申告時期の忙しい中でしたが、2回にわたってコメントを頂きましたので参考までに掲載します。
ちなみにこの先生は現役の税理士ですが、元は国税庁OBで、長年にわたって申告、納税が正しくされているかを専門にチェックされていた立場の方です。他の小教区のカトリック信者でもあります。 最初に下記のようなコメントをFAXでいただきました。原本(写)は資料室です。
(1回目の先生のコメントについて) 『お送り頂いた資料拝見いたしました。詳しく精査する暇がなくて、申し訳ありませんが、さっと目を通して気づいた点を述べさせて頂きます。
(1)署名、捺印の不自然 「監査報告書の年月日」が同じ日で(もちろん、同じ日に訂正されたものなら問題ありませんが)印字されていて、正しい?もの(訂正されて郵送されてきた資料B)も、間違って?いるもの(総会で最初に配布された資料A)も全く同じ筆跡で、同じ場所に押印されています。

二枚の監査報告に署名捺印された場合、もちろん筆跡、捺印が全く同じであることには問題ありませんが、署名、捺印の場所まで全く同じ場所ということは作為的なものを感じます。 あらかじめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
≪要は、常識的に収支報告書の訂正版が出てくることは問題ないが、新たに訂正版が出たなら新ためて監査役が確認の上、再度署名捺印して配布するのが普通で、そうした場合、間違い版と訂正版とがまったく同じ位置、同じ場所に署名押印がぴったり重なりあうようなことはありえないから、不自然だと先生は言いたいのだと思う。 これは、おそらく署名捺印しているページは、間違い版も訂正版も収支報告の各欄金額数字の訂正がなかったのでそのまま利用し、金額数字の訂正のあった反対側ページだけ金額を訂正してカラーコピーし、裏表を合わせて両面カラーコピーとして再作成されたものと思われます。 このように作成されたものはまじめに監査がされていないのではと疑いを持たれても仕方がないですし、正しく作成された収支報告書とは言い難いのかもしれません。 当然中身の金額数字までもいい加減ではと疑われても仕方ないでしょう。案の定、今年の総会でもいい加減なめちゃくちゃな収支報告がなされたようです。≫
(2)前年度繰越金 「2010年度収支報告書及び2011年度予算案」で、2010年度収支差額は1,575,014円しかないのに、2011年度実績では突然、前年繰越金18,019,622円が計上されている。 2010年度末普通預金残高18,019,622円をいきなり前期繰越金として処理してあるがあまりにも会計原則を無視した処理である。 本来、収支差額が翌年に繰り越されるべきところを資産科目(B/S)の普通預金残高が損益科目(P/L)に前期繰越金として計上されるということは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・絶句します! 2011年度の普通預金残高8,460,211円が2012年度前年繰越金の予算として計上されるに至っては・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
≪要は、前年度からの継続性のない収支報告内容で、めちゃくちゃ、デタラメで正しくないということのようです。≫
(3)受取利息 2011年度実績では、その他の収入(3)欄の受取利息が、290,959円となっているが、2010年実績は普通預金利息の6,513円のみであった。その時の2011年度予算では受取利息は10,000円と予算化されていた。2011年度に突然、受取利息が突出した理由は、今までの普通預金利息だけでなく、一般会計と他の利息のうち建設積立金と霊園特別会計の利息を除いたものを合計して計上したためのようである。 なぜ、今までは普通預金利息以外は収入から除外されていたのか?
≪これも、わけもわからずデタラメ処理をしてきたということでしょうか。≫
(4)渉外費 渉外費は一応、慶弔費となっているようであるが、2010年度が150,000円,2011年度も150,000円、(2012年度予算では100,000円に減額)となっているが、二年間全く同額の慶弔費ということは、有り得るのか?表に出せない使途不明金ではないのか?
≪渉外費についても第三者の専門家の目からみれば不自然極まりない金額の計上の仕方ではないかとの指摘のようです。≫
(5)当初間違っていた収支報告書(資料A)の特定預金預入支出(8)欄のオルガン積立金支出200,000円、相互扶助貯蓄制度の10,000, 000円が、正しいと訂正された(資料B)では、オルガン積立支出200,794円、相互扶助貯蓄制度10,282,000円に変更になった経過と理由は?
≪訂正した理由とは単純に利息を合計して支出したということのようですが、期末での具体的な支出資料との金額、日付、残高などが一致しているのか疑問となりそうです。≫
以上、私がざっと目を通して気づいた点ですが、本来ならば次期繰越金となるべきものを、預貯金組み入れとして処理して収支計算から除外していたのを突然、前期末普通預金を前期繰越金として処理をするという目茶苦茶な会計処理でごまかそうとしていること。これでは完全な粉飾決算となり泥沼に入り込んで正確な収支計算は、とても望めないと強く感じています。』
≪わけもわからず、デタラメな決算報告をしてきたことが、専門家の目には意図的なごまかしに映るようで、粉飾であるとまで言われたことに教会責任者の浦野主任司祭および関係者はどのように反論しますか? 責任者として責任を感じなければならない方は誰でしょう?
宗教法人の下部組織として正しく機能しなくてはいけないはずの小教区が肝心の会計、財務状況がデタラメでは帰属する宗教法人としては法人格を疑われても仕方ないでしょう。この小教区豊島教会の現状は社会的妥当性を欠く現状そのものでしょう。この小教区豊島教会の関係者は宗教法人として社会的責任があることも理解できていないのかもしれない。 早急に専門家の指導を仰ぎながら、自分たちでもう一度収支報告書を精査、修正して正しい報告書を提示すべきでしょう。 重症ないし重体になりかかっている豊島教会の収支報告内容は、うにゃむにゃにすることなく、なるべく早く専門医に診てもらう必要があるということです。 早急に手当てしないと回復不可能と言われるかもしれません。そうなったらだれがどのように責任をとるのでしょうか? 不正をしているから正しい報告が出来ないでいるし、都合が悪いから無責任な態度をとっているのではと思われても仕方ないでしょう。 何回も指摘されているように、このカトリック豊島教会は世間的にも信じられないような決算報告、収支報告、予算案が続いているということです。信義則に反する行為です。このようなことをしていると小教区としての存続も危うくなるのではと危惧されます。
現在、おもに司祭不足を理由としてすすめられている小教区の統廃合による再編成も、その理由ばかりか、不明瞭な収支報告を原因とする小教区維持のための財源不足、わかりやすく言えば、献金不足による理由も加わり、小教区が加速的に統廃合され減少していくことにならなければと思います。豊島教会は資産価値が高いので、他の小教区が豊島教会に統合されることはあっても、豊島教会そのものは無くなることはないと思いますが。
自分たちの献金が正しく使われ、正しく記帳され、正しく収支報告がされてこそ、安心して献金できる環境だと言えるのではないでしょうか。そのような環境を整えてこそ教会は主任司祭の責任において献金を受け取る資格があるということでしょう。 主任司祭や一部の教会委員たちが、集められた献金を適当に使い、デタラメな伝票を作成記帳して、いい加減な収支報告を平然と続けているということが許されるわけがありません。それらの行為は世間から見てもとくに非難性が高く、権利の乱用であり、信義則に反する所以であると指摘されるものです。
2011年5月の総会は年間行事で本番の総会として予定されていながら、平気で壇上の十字架像の前で、2月の総会で否決されたから、再度この5月に総会を開催せざるを得なかったと、嘘の報告を白々しく皆さんに報告していたⅠ野氏とそのような嘘を報告させた浦野主任司祭と関係者は、はなはだ大変良くない人間に映ったものです。十字架像の前で嘘をいう必要性はまったくないはずなのに、お粗末な間違った総会対策の発想から、過剰とも思える対応で、わけのわからないことをしておりました。N嶋君の対応も同様でした。このようなことが意図的にされるということは本当に残念です。
浦野雄二主任司祭は意見があれば文書で出せと言いながら、私どもが文書で出しても、きちんとした回答を文書でも、口頭でもしたことが無いのはいかがなものでしょう。今回の件も含めて文書で真摯な回答をいただきたいと思いますが如何でしょうか。決算報告、収支報告、予算案を正しく訂正、報告させると全信徒向けに教会委員長と連名で出すべきでしょう。 当然ながら、教会責任者として信徒が安心して献金できるような体制を早く構築していただきたいものです。自分たちの反省も含めて、今後どのように対応すべきか考えるべきでしょう。できれば主任司祭としてご意見を文書でお聞かせ願いたいものです。≫

9.豊島教会は悪の巣窟になりつつある?

(2回目の先生のコメントについて) 『2010年度末の普通預金残高18,019,622円を2011年度決算において前年度繰越金に算入して収支が計算されています。

2010年度収支報告では次期繰越額は1,575,041円しかないことになっています。 18,019,622円を前年度繰越金に粉飾(架装)して、今年度収入計14,853,143円と合計して収入合計を32,872,765円と過大に計上しています。 その結果、今年度支出計24,412,554円を差し引いても8,460,211円が次年度繰越金とされています。 2010年度次期繰越額1,575,041円が正しいとして、2011年の前年度繰越金として計算しますと、今年度収入計14,853,143円と合計して16,428,184円が収入合計となります。この金額から今年度支出計24,412,554円を差し引くと7,984,370円の欠損となります。 7,984,370円の欠損を、あたかも8,460,211円の黒字のごとく粉飾させることは、詐欺行為としかいいようがありません。明らかな犯罪行為です。』
≪専門家の目からは欠損のマイナス表示を避けるため粉飾したのではと思われております。詐欺行為、犯罪行為ではないかとの厳しい指摘ですが、そこまで言われたことに何かを感じとってほしいものです。恥ずかしい限りではありませんか?一般信徒やまじめな献金者を騙していることでしょう。 指摘されたことを真摯に受け止めて修正をしてまじめに献金さている多くの皆さんに正しい報告をしなおすことでしょう。当然ながら謝罪も要求されますが、それが出来なければ今後も、名指しで責任の所在を追及されることになるでしょう。
浦野雄二主任司祭を親分として子分の教会委員長、教会委員、監査役、決算報告や収支報告に携わった方々、総会でのいい加減な報告した担当者、総会での議長などに対しては猛省を促したいところです。デタラメな報告をした責任を問いたいものです。まともな人間なら申し訳ないと責任を感じるはずですが・・・・・・。
私どもが何らかのお手伝いをしようと思っても、一緒に仕事が出来ないのは常識的でない、あまりにも不明朗な収支報告書を平気で自分たちの都合のよいように改ざんしている形跡が見られるからです。私どもは、一般信徒から集めた献金などについてこのように平気で無責任に正しくない報告している方々、また、すぐ謝罪して訂正すべきだと指摘しても何ら真摯に対応されない方々とは距離を置くことが必要と考え、一線を画すことにしたことです。世間から見るとまったく非常識な集団に見えてしまっております。
専門家の先生から詐欺ではないか、犯罪行為ではないか、と指摘されるに至っては話になりません。したがって詐欺集団、犯罪集団、暴力集団と見られるような方々とは仲良くすることは出来ないのです。このようなことを平然とされる方々とは主任司祭を含めて関係を持たないようにした方が無難ということでしょう。献金者を騙していることに気がつかないのでしょうか。 このまま、収支報告が正しく訂正されないのなら、残念ながら豊島教会はすでに悪の巣窟になりつつあるということです。とくに第三者的な税理士の先生や公認会計士の先生方から見ても私どもと同様、決算報告、収支報告、予算案などの報告書を見る限り、カトリック豊島教会は、そのように見えてしまうのです。≫
(先生のコメントを続けます。) 『従って、2011年度の普通預金残高は8,460,211円となり、これが次年度繰越金とされています。 豊島教会の信徒が気がつかなければ、このまま普通預金残高が無くなるまで粉飾決算を継続させてしまうつもりかもしれません。と、いうより、そもそも普通預金そのものが存在するのでしょうか? 2011年12月31日現在の残高証明は存在するのでしょうか?
≪普通預金があったとしても、無いがごとき正しくない処理の仕方ではないかということのようです。普通預金の期末の残高と合うはずがないような処理の仕方をしているということでしょう。前年度からの継続性もないということでしょう。≫
元はといえば本来、次期繰越金として翌期の収支計算に算入すべきものを、勝手に預貯金組み入れと称して処理してきたツケを、一気にここで取り崩して消滅させる魂胆かと思いますが、そもそも普通預金そのもの自体が存在するのでしょうか? 預貯金組み入れがされているのを確認した人がいるのでしょうか?通帳そのものを確認した人がいるのでしょうか? 私に言わせれば「世にも不思議な物語」としか言いようがありません。
≪ここでも先生は、あたかも普通預金がないがごとき間違った処理がされているということで呆れているのでしょう。まったく不明朗な金額数字の記帳、処理の仕方ではないかと感じられているのでしょう。≫
豊島教会の会報「豊島教会新聞」2月号によると、2月12日の信徒総会において2011年度会計決算報告も2012年度会計予算案もすでに承認されていることと推定されますが、今回の粉飾決算の首謀者は今頃、「豊島教会の信徒をだますのは、赤子の手をひねるよりも楽だ」とほくそ笑んでいることでしょう。 正直なところ私も、これ以上こんなデタラメな豊島教会の決算書は気持ち悪くて、二度と見たくないというのが本音です。』
≪以上が先生のコメントでした。≫

10.豊島教会の教会委員選出の選挙について

豊島教会では教会委員を選出するのに、まず、予備選挙を行なって候補者を選んで、さらに本選挙で候補者の中から教会委員を選出するようです。 大変手間のかかることをおやりになっております。 しかし、予備選挙も本選挙も全体の投票数、候補者の得票数がまったく公表されておりません。具体的に全体の投票数や、だれが何票獲得したのかが明らかにされない選挙というのはあまり聞いたことがありません。選挙という名がつく以上は全体の投票数や候補者の得票数は公表されるべきでしょう。 公表されてはいるが、いい加減な数字を公表しているどこかの小教区の例などもありますが・・・・・・。 公表されないということは主任司祭にとって、あるいは金魚の糞のように主任司祭に分別もなくぶら下がっている取り巻き連中にとっても都合が良いからでしょう。
余計なことですが豊島教会には男性版金魚の糞より、数では女性版金魚の糞が大勢いるようです。浦野主任司祭には追っ駆けフアンが大勢いていいですね、と冗談に言ったことがありましたが、(彼女たちの行動は)ストーカーだ、と怒っていましたっけ。それなら一緒に温泉旅行など行かなければいいのにと人ごとながら心配をしたものでした。
さて、選挙に投票数や候補者の獲得数を公表出来ないということは、いかようにも、得票数に関係なく”裏”で選任できるということでしょう。このようなやり方も見方を変えれば一般信徒をだましていることになりませんか? 投票数、得票数を公表しないのなら、まったく選挙制度の意味がないと思われます。単に名目的なものでしょう。したがってそのような透明性のない不明朗な選挙制度は廃止したほうが良いかもしれません。 選挙制度を維持するのならフェアに投票数、得票数を公表することです。 また必要があれば、主任司祭の推薦の別枠を設ければすむことです。現状がそうであるかも知れませんが。
このような主任司祭中心の不透明な選挙制度のやり方が昔も今も変わらず、豊島教会ばかりか、おおかたの小教区でも大同小異なされているのが現状でしょう。主任司祭の指名制のところもあるでしょう。自他推薦制のところもあるでしょう。それらを否定するものではありませんが、岡田大司教の言われている、”開かれた教会”を目指すのであれば、いずれにせよもっと透明性のある制度にすべきでしょう。不透明な選挙制度はよくありません。かえって不信感を煽るばかりで無いほうがましでしょう。
したがって、豊島教会の主任司祭と金魚の糞集団による選挙制度は見直すべきでしょう。今のままの主任司祭と糞の癒着は、一般信徒の前で傲慢になる要素を十二分に抱えての言動が当たり前となっているように思えます。 主任司祭の傲慢も、一般的に聖職者の権威主義につながることです。聖職者が権威主義に陥れば多くの問題を引き起こすことは歴史が証明しているところです。多くの信徒が反発した時代もあり、教会の歴史を塗り変えたこともありました。歴史に学ぶことは必要でしょう。
また、豊島教会の選挙に付随してのことですが、予備選挙(本選挙)で選ばれた者は本人の意思(意向)に関係なく断れないという選挙規則になっているようですが、その理由として選挙制度、規則を大事にしたいとの説明を受けたことがあります。しかし、それは本末転倒で、規則が大事なのか、本人の意思(意向)が大事なのか、何のための選挙なのか原点に帰って考える必要があるでしょう。 露骨に他の教会に籍を移せば断れるとの説明もありましたが、この説明もちょっと如何なものでしょうか? 日ごろから愛と思いやり、礼儀を唱えている教会にはふさわしくない説明のように思いました。説明する人次第で、良くも悪くもとれる説明だったようです。
最近の教会委員など役職関係者には、デタラメな収支報告をした時の委員長だった方、デタラメな監査報告をした方、総会で暴力をふるった方、十字架像の前で歯切れよく嘘の報告をした方、・・・・・・・・・・・・・・・・方、などが相変わらず選ばれております。 一般の民間会社ではこのような人事はあり得ないところですが、カトリック教会というところはあり得るのでしょう。人材不足なのでしょうか? 私どもから見れば、このようなあまり以前と変わり映えしない人事は、相変わらず反省も進歩もない豊島教会に映っております。したがって今年の、収支報告書、予算案などが相変わらず正しくなく不正確でデタラメなのも納得?してしまうのです。 委員の顔ぶれを拝見しますと、例年間違いを指摘された人たちを擁護しているような人事にも感じられます。おそらく、擁護することが主任司祭や豊島教会が言うところの”愛”だということなのでしょうか。しかし一方、そこにはおおかたの善意なまじめな一般信徒の献金者などの存在が忘れられております。その方々への対応が欠落しております。正しい収支報告をさせることが関係者に対する、あるいは一般信徒に対する”愛”ではないかと思いますが。 “愛”というより”常識”でしょう。逆に言えば、収支報告の間違いをそのまま見過ごすことが”愛”あるいは”常識”ではないということです。 今年も正しくない、不正確な、不明朗な、間違えている決算報告、収支報告、予算案について、誰が責任を取るのでしょうか?関係者は一般信徒の皆さんに申し訳ないという気持ちになれないのでしょうか?ここまで来るともう過失犯というより故意犯でしょう。 また収支報告の話になってしまいました。 (2012年3月4日記)